昭和44年07月11日 朝の御理解



 御理解 第70節
 「人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならぬ。」

 道理に合う信心。世の中には随分と道理に合わない信心が、あまりにも沢山あります。そういう意味で教祖は実に道理に合った、言わばうがった信心をなさり、又それを私共に教えておって下さる。例えば食物、食物訓ひとつに致しましても、金光様の信心がどの位素晴らしいか。又は偉大であるかということを感じるんですね。いわゆる道理に合ってるんです。「食物はみな人の生命のために、天地の神がつくり与え給うものぞ」と。だから次には「何を食うにも飲むにも、有り難く頂く心を忘れなよ」と仰る。
 もう平凡なんですね。そういうそのもう全てを喝破せられた宗教とでも申しましょうかね。もう実にその見事にその事を言い切っておられますす。「食物はみな人の生命のために天地の神のつくり与えたまうものぞ。何を食うにも飲むにも有り難く頂く心を忘れなよ」と。次には「大酒大食は絶食のもとになるぞ」と言う様に、こう戒めてもおられます。「食物は人の生命のために」それに魚は食べてはいけんね。肉類はいけないと言う様な事を看板にしておる宗教すらあるんですからね。
 生命の為に人間が生命の為に頂くということ。有り難く頂くということ。事によってですね言うならば、そのう食うもんも食われるものも生きる道なのですよね。魚は人間に食べられる事をもって本望とすることであろうということです。例えて申しますなら。そのようにそのうがった。この宗教に入ったらね、絶対男女の交わりなんかしてはいけない、と言った様な厳しい宗教すらあるんです。この宗教に入ったらお酒は飲まれないんだと、言う様な宗教もあるんです。
 どんなに大宗教だと言ったってですね、そんなに言わば道理に合わない事を言う信心がある。ただ御利益ということだけが目当てではないのだ信心は。人間の生きて行く上には本当に全てがね、有り難しと受けれる道を教えておられる。まぁそこへんその事だけででも、まぁいかにその万物の霊長である人間が、どうでもさして頂かなければならない宗教だということが分かりますけれども、それが本当にどうでしょうかね、世界中の氏子のどれだけの割合で、お道の信心を信奉しておる事でしょうか。
 またお道の信奉しておる信奉者の中にも、その事を本当に分かって信心しておる人が幾人あるだろうか。私はそれを思うんですね。ただ銘々が宣言する自分のしておる宗教が世界一だ。自分のしておる信心が一番だ。と例えば言うておってもその素晴らしいところを把握せずして、良い信心とは言われないと思うんですね。またそれに引き当てのように頂けれる、言わばおかげに浸っていなかったら、その値打ちはないんですね。万物を見て道理に合う信心をせよ。
 福岡の吉木三代目の吉木辰次郎先生が、久留米の初代石橋先生が、御晩年の頃に仰られたんですね。久留米の石橋先生と言や、もう大変な御神徳家でありましたから、あのう「石橋先生、御神徳を受けるにはどういう心掛けが要りましょうか」でその言われた。そしたら石橋先生がね、どこでおっても例えば旅行なら旅行する、汽車の中からそこの車窓から外を眺めるでもです、それをつぶさに見ておけと仰った。
 実にその簡単なお答えですね。誰でん見よらん筈はなかばってん、いわゆる関心を持って見ておけとこう言うのである。言わば信心を持って見ておれというのである。森羅万象もうことごとくがですね。天地の心である。天地の働きがそこにあるのだ。それを見ておけとこう言うのである。それはもうほんとうにそうですよね。皆さんがおかげおかげと言うけれども、何にもないのと、何にもない所におかげの映ずるはずはないんですね。そこにひとつの実体というものがあって始めて影が映るんです。
 だからおかげおかげと言うておかげを求める事が、いかにも愚の骨頂であるかということが分かる。百のおかげを頂きたいなら、百だけの実体をまず自分が見なければならん。大きなおかげ頂きたいなら、やっぱ自分自身が大きゅうならないかん。例えば小さいこの小動物なんかでも見ておってでもそれを感じます。あの小さい青ガエルなんかは、今は沢山おりますね雨上がりに。それがもう本当にあの、例えばヤツデの葉ならヤツデの葉に止まっておっても分からないですね。
 白い竹の壁に映って止まっておるヒキガエルは、いつの間にか竹と同んなじような色になる。いわゆる保護を受けておる訳です。ヒキガエル自身は気付いておりませんけれども、天地はそのように微妙に働いておられる。一小動物の上にでもそうである。いわゆる保護色である。例えばそれを自然をつぶさに観察する。そこからですねははぁこういう例えば虫けら動物ですらです、こういう御守護を受けてあるのであるから、ましてや人間万物の霊長と言うて下さり、言うなら可愛い氏子とすら言うて下さる私共がです。
 この神様の御守護の受けられんはずはない。受けられて受けておるんだと分かるんです。例えばそういう冷血動物と言われる、みなそのヘビとかカエルでもね、もう自分の五体全体で身体全体で天気の良し悪しぐらい分かる。降る照るぐらい分かる。だからカエルが上に上がってきたり、ヘビが高い木に登ったりする時にはね、これは大雨が降る時だぞということが分かる。私共はそれを見てははぁこれは大雨が降るぞと言う風に分かる。けれどもそのカエルとかそのうヘビとかっていうのは、もうそれ前に分かっておる。
 冷血動物のそういう小動物ですらが、天地の動きを感知するということが出来るというのに、人間万物の霊長とまで言われるその人間がどうして分からんのかと、いうところにまた考えが至って来るとです、いかに私共が霊長の言わば霊光を放てる内容を持っておっても、そこに我情があり我欲があり、垢に汚れまみれておる、それがひとつの霊長として値打ちと言うかね。言うなら霊光を覆いかぶせてしまっておる。それこそ人面獣心である。人間の面しとるだけだ。
 心は獣と同じ事だと言った様な事にすら、まぁ言わばなりかねないのでございますから、信心とはそこのところに気付かせてもろうて、その霊長の霊長たるゆえんをですね、信心により本心の珠を磨く事改まる事によって、それを発揮していこうと言うのであります。そこでですね人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならんと仰るが、んならどう言う様な有り方を持って、信心を進めていくか信心をさして頂くかということを、その前の69節から頂いてみましょうかね。
 69節にはこうございます。「信心はみやすいものじゃが、みな氏子からむつかしゅうする。三年五年の信心ではまだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、われながら喜んでわが心をまつれ。日は年月のはじめじゃによって、その日その日のおかげを受けてゆけば立ち行こうが。みやすう信心をするがよいぞ」とこう仰せられます。私共がその万物の霊長としての、私達が万物を見て道理に合う信心をする。その万物の中からです言わば分からしてもらう事がある。それを見て道理に合う信心をすると。
 それはなら難しい事かと言うと、難しいのではないと言うておられる。見やすいものじゃがと仰っておられる。それを氏子から難しゅうする。だんだん信心をさして頂いて、三年五年ね。まだまだ迷いが起こりやすいのでございますけれども、この神様の間違いないと言う様な働き。いやこの神様のおかげを頂かなければ、実を言うたら私共の立ち行くことは出来んのだと。例えば分からして頂く頃から、信心が本当に本格的に言わばなって来る訳です。
 十年の信心が続いたらわれながら喜んで、わが心を祀れれる。言わばというのはどう言う事かと言うと。私どもの霊長としての霊徳というものがね備わってるんだけれど、それが人間のねいわゆる我情我欲の為に曇ってしまっておる。それを払うていく言わば真の道に入らせて頂くのでございますから、それが払われていくね。本当の事が本当の事として見れる様になる聞けるようになる。そこから神様の間違いない働きを受ける事が出来る。始めてこの神様のおかげを頂かなければ立ち行かん私達と言う事が分かる。
 そこから本当の喜びが生まれて来るんですね。そこんところをそういう信心がということでしょう。ただもう十年信心したけんで、もう自分の心祀ってええと言うのじゃない。そういう精進をさせて頂きながら、われとわが心を祀らして貰えれるようなおかげを頂き、「日は年月の始めじゃによって、その日その日のおかげを受けていけば立ち行こうが」というところが素晴らしいと思ですね。「日は年月の始めじゃによって」と。朝こうしてお参りをする御教えを頂く。
 はぁそうだ。そこんところを改まっていかなければならい、今日こそは今日こそはこの御教えに取り組んで、一日を行じさしてもらおうぞと。それが真の道を歩くことだとね。ですか、みやすい事なんで実を言うと。真の道なんて厳しく聞こえて来るけれども、そんなにみやすい。例えばこうやってお参りをさして頂いて、はぁ今日は頂いたあそこのところを本気で自分の生活の上に頂いていこう。現していこうと言う様なところ。ところがです確かにここではそう思うたんですけれども。
 一歩外へ出て実生活の中に入らせて頂いて、言わば垢や汚れの中に飛び込んでまいりますとです、またいつの間にかそこに、そういう流れに押し流されておるような一日であることに気が付く。はぁ俺はもうむつかしか。こんくらいの教えも行じきらんのだから、もうダメだと言わずにね、そこんところをこんなふうに頂きますよね。「日は年月の始めじゃによって」と仰っておられる。例えば昨日失敗した事でもですね、あくる日はまた日は年月の始めなんだ。もう過去の事はもうないのだ。
 もう「詫びれば許してやりたいというのが親心」に縋って、過去の事は詫びて今日はまた新たな心で、またあなたの心に沿う一日でありたい。これなんです信心とは。ここを繰り返していくことなんです。「はぁ私はもう自分じゃ出来ん。もうそげな難しい信心は私には出来ん」と言う様なのではない事が分かる。「日は年月の始めじゃによって」と言うね。もうその日その日が元旦なんだ。だから「今日から今日から」毎日これで行ったらいいのである。
 その日その日をおかげを受け、その日その日のおかげを受けていくね。倒れ転びしながらも汚れにまみれながらもです、また一日お風呂へ入らせて頂いたら一日の垢がスキッと落ちて、いわゆる爽快な気持ちになれるように、私共の心がまた新たな爽快の心が頂けれる所に信心があるんだ。信心のない生活と言うのは、毎日風呂入らんような生活だと思うですね言うなら。ですからもうそれこそ岩見重太郎じゃなかばってん、もうコケんごとなっとる垢が付いて。そして言わば性が変わってしまう様な結果になっておる。
 人間の性というものを失ってしもうて、良心すらもない様なね、それこそ鬼畜の様な心の状態、荒んだ心の状態と言う様な事に、すらなりかねないのが人間である。そこんところを私共が日々、例えばんなら教えを頂いてね。その教えに取り組ませて頂いて、そこに生身を持っておる人間ね。こう人間の私は生態と言うかね、喉が乾いたらやっぱりお水が飲みたい。お腹が空きゃぁご飯を食べたい。それこそあるがままになるがままにのいう、自然に合流した生き方って言うのは、まぁそういう生き方でしょうけども。
 そこに人間としてのまた道というものがあるんです。飲みたいから飲む。食べたいから食べる。したいからすると。いわゆるしたい放題飲みたい放題、それではそのういわゆる万物の霊長としての値打ちはないことになる。それをです平気で飲みたいから飲むんだ、食べたいから食べるんだと、言った様な生き方の中からそこからね、破綻が生じて来るのです。例えて言うなら、あぁお便所に行きたくなったからっち言うてから、そこであなたジャンジャンお便所しちゃいけんでしょうもん。
 やっぱりそこにはちゃんとそこに便所があるから便所に行かなきゃいけん。食べたいからと言うてもう、いつもかつも時間もなしに、ちゃんと朝昼晩なら朝昼晩と、だいたい時間を決めておいてそこに食べる。しかもそこに腹八分と言った様な頂き方をするところにです、さっきの食物訓じゃないですけれども、生命の為に与えられておる食物である事が分かる。そういうひとつの人間の、万物の霊長としてのルールというものをですね、お互いがわきまえてね。そしてその上にですね。
 成り行きを大切にさしてもらう。成り行きを見てその成り行きによって行動していく。いわゆるひとつのそこにリズミカルな生き方というのがあるのだ。調子というものが出て来るんだと。昨日朝の御祈念の後に、福岡から高橋さんの奥さんの弟さん、田畑さんという人がおりますが、ちょいちょい参って参ります。もう半年も前の事だったでしょうか、その自動車を買いたいというお届けがあった。私はそれは田畑さん、もう少し時期を待ちなさい。買ってはいけんと言うのじゃない。
 お繰り合わせをお願いしておいてね。時節を待ちなさい。もう少し時節を待ちなさい。と言う訳であった。ところが最近非常にその良い人物の、ある自動車のセールスと非常に懇意になった。「田畑さん大抵な便利は図ってあげるから、今時期だから買うとかんか」とこう勧められて。「ほんなら。とにかく私は合楽にお参りしてお伺いして、そしてからの事にしよう」ほんだら「合楽っちゃ何か」ってこう言われた。
 「合楽は金光様だ。これはもう私の兄貴が、まぁ毎日お参りしておる所であるから、明日電話をかけて、兄貴の自動車に便乗させてもろうて行きたい。そしてお伺いをしてから、買うなら買う返事をさしてもらおう」ちゅうた。そしたら「そこではいろんなその、事ども教えて下さるのか」「教えて下さる」「そんなら私も連れて行ってくれんか」と言うので、昨日はそのセールスの方も一緒に参って来た。そしてその事を御神意を伺わして頂いたらね。長期月賦というですかね。
 普通は一年なら一年で支払わんならんのを一年半ぐらいにしてもらえれる、そういう便利が出来るなら、買わして頂いてもよかろうということであった。そしたら田畑さんが言うんですよ。先生この人はそういうふうに私に言うて下さるんですよ。しかもその頭金だけはこうやって要るんですけれども、先生この話が始まってですね、会社の方で何かのお金を貸し出してくれることが、自分はちょうど三番目に当たっておったから、まだまだずうっと先だと思うておった。
 ところが先生この話が出だしましたらですね、「田畑さん今度はあんたが借ってもよい番ばい」ちゅうてから、先日言うてくれましたっちうん。やっぱ神様はお許しを頂く時にはそういうなね。これを私がいわゆるその「成り行きを大事にして行けよ」ひとつのリズムが出て来たと。調子が出てきたんだね。頭金はもう誰に頼まんでも会社の方から、もう自分が借りれる番が来ておる。
 しかもこの人は長期の月賦をそんなに、この頃家を建てたばっかりで、何やかやと出費のあった後ですから、そういう余裕があるはずがないのですこの人は。この頃新築したんです。ですからそのうだからそういう生き方がね、分かるともう実に楽しいんだ。日々がね。と言うてそのリズミカルな生き方。調子に便乗しての生きて生き方というものがこれは私の流儀なんだ。
 と言うてその事についての御理解を懇々と二人の、そのセールスの方と二人にさして頂いて、はぁこりゃとにかく信心っちゃ楽しいもんだなぁと、言う様なものを感じたらしいんです。何かこう一生懸命拝んでから頼んで、あぁ先生がその千里眼的な事をポンポン教えて下さって、と言った様な事が信心のように思ておったのがです。もう自然と共に成り行きと共に、そこに自然の調子を発見して、その調子に便乗して行く生き方がある。しかもその生き方はね。
 実にスムーズないわゆるおかげへの一途をそれは辿って行く事である、と言う事をです私は説かせて頂いたんです。これならずうっと有り難い事に繋がっていくんだと。それを自分の我情我欲で、それをそのせっかちにいわゆる時節も待たずに、自分の憶測だけで自分の知恵力だけで、そこをやりきって行こうというところに間違いがあるのだ。そういう事をですそういう生き方。「96節にはそう言う様な事の内容があるようです」「日は年月の始めじゃよって、その日その日のおかげを受けてゆけば」と言う事は。
 そういうひとつの自然の美というか。自然のどうここでは70節では「道理に合う信心」と仰るが、こんなに道理にピッタリした生き方があるだろうか。天地の法則の法則に基づいての生き方。しかもそれをこうリズミカルな生き方がある。そこにいつも神様の御守護を受けておるんだなぁ、お守りを受けておるんだなぁという有り難さが、いつも絶えず自分の心の中に入って来る。そういう生き方。「その日その日のおかげを受けてゆけば立ち行こうが」と仰る。
 そういうひとつのリズミカルな生き方の中にです、その日その日があってしかもです、それが神様の願いであり、人間氏子の真実の助かりの方向へ向かって、進んで間違いなく進んでおるんだというところに、確信が生まれてくる。「確信の生活」が出来る。「不安の生活から確信の生活の確立」なんですね。「みやすうねおかげを受けていけば立ち行こうが。みやすう信心をするがよい」と。だからみやすう信心をするがよいということは、そういうひとつの調子に乗った、言わば生き方ね。
 例えばあの浪花節を聞いておりますと、影の三筋というのがあるね、三味線でその調子のリズムを出してくれるから、思わず知らず声が出てくる。弾く者もそれを語る者もね、そのリズムに乗って行く所にです、とにかくそれは聞く者も語る者も、調子を調えておる者も皆んなが賛者がひとつになってです、楽しい雰囲気をつくっていくように、天地は私共に絶えずそういう生き方の出来れる、仕組みをしておって下さるんですけれども、それを気付かんでおるのが、殆どの人間の言わば生き方ではなかろうかと。
 私は思うんですね。それを例えばここで生きた手本を示しておるのが、言うならば私なんです。もう実にもうあるがままになるがままに、と言うても人間のルールだけは守って行っておる。だからもうやり放しという意味じゃないね。そこを「信心も山登りも同じ事だ」とこう仰るように、何時も何時も何とはなしに修行というものによって支えられ、何時も爪先登りの道を登っておる様な感じ。ですから段々段々それが高められていくのである。高められていくから自分の視野というものが段々広うなっていくのである。
 これをもっと高めたら、どういう素晴らしい事が見えて来る様になるだろうかという、いよいよ本当に次元の違った世界への、希望というか願いが湧いて来るのである。ですから信心にもそこんところがなからにゃ、それをまぁお道では修行と言うておる。そのこの修行の。信心が廃退してしまったらダメなんだ。どんなに素晴らしい、例えばんなら三の「世界の三大宗教」と言われる、例えばね仏教とかキリスト教なんかのね。いわゆる現代のその宗教のようにですね。
 生きた働きの全然ないただ素晴らしい教理教典と言った様なものが要しておると言うだけではない。生きた働きをそこに現しておるという生き方。「お葬式の為にある宗教」と言った様な、もう廃退したものではなくてです。それこそその日その日の生き方の中にです、「日は年月のはじめじゃによって」と言う様な生き生きしたもの。そこから生き生きした体験が生まれ、その生き生きしたその体験に便乗さして頂きながら、しかもつま先登りの山道をいつも歩いておると言う様な生き方。
 そういう信心をお互いさせて頂いておるのでございますから。いよいよ万物「俺は万物の霊長だ」と言うてですね、威張るわけにはいかんのです。信心がなかったら。「お前どこが他の動物と違うところがあるか。それこそ心はお前は形だけが人間の姿しとるばってん、心はお前は牛馬と同じじゃないか」と。ただ食う為に働きね。自分のしたい放題の事を少しの事が出来るともうやっておる。
 それでは霊長としての霊徳は失せてしまうことは間違いないことである。私共はその霊長としての自覚に立って、しかもその霊長としてのその霊光を放てるようなおかげを願っての信心。それを教祖は「日々の改まりが第一」と仰り、「信心は本心の珠を磨くものぞや」と言う風に教えておられる。しかもそこに万物を見て道理に合う信心。万物を見て言わば自然が教えてくれる。
 成り行きが私に行く道を指し示してくれる。そういう道をです、いよいよまがう事なく歩かして頂く。そういう道を私は昨日からね、「真の道」だと言っておる。「人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならぬ」というところを、今日はその96(70)節から、んならどういう信心をせねばならんか、ということを69節から、まぁ頂いたわけでございますね。
   どうぞ。